沼の夜

背丈1mほどに育ったススキの中に

また違う種類のものが生えている

セイバンモロコシというらしい。

ススキの葉は切れ味が良いから

むき出しの脚や腕にかすれる度に

子供の頃の痛みを思い出して

身体がひくつく。

 

足元では、茶色をした小さなバッタたちが

驚いたように跳ねている。

夕陽は色を濃くしつつ

西へとゆっくりとしかし確実に向かってゆく。

風はさわやかで

こんな草むらで水鳥を見たり

草の合間から空を見上げたり

バッタの行方を探したりとしていても

僕はまったく暑くない。

太陽はもう

西の街や里山の向こうへと隠れた。

地面に近いあたりは濃いオレンジ色に

その少し上は限りなく薄い青が広がり

天へと近づくほどに色を濃くしつつ

雲に隠された頂点では群青の空になった。

残照に空が満ちると

水鳥たちの声は静まり

ときおり聴こえる程度になる。

遠く、近くで虫らは鳴き

心地よい静謐な雰囲気に浸る。

僕は街灯のあかりの下で

ここ数日ずっと読んでいる本を開いた。

空気がつめたさを増してゆく中で

文字を追いながら

答えのようなものを探している。

気がつけば2時間ほど経っており

西の空のみを覆っていた群青色は

空のどこまでも続いている。

僕は顔を真上に向けて

ただひとりの幸福を感じていた。

星々が輝き

はくちょう座が羽ばたいているから。

秋を感じるにはまだ早い気もするけれど

涼しいことと、空が広いことが嬉しくて

ここまではかなり早足で来た。

夕陽には間に合ったし

楽しくて速くなる歩調を意識して

ゆっくり水辺を歩いていくことにした。

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夏の終わりに冬の雨を思う

土手へ上がると

たくさんのシラサギと数羽のゴイサギを見つけた。

僕が寄れるのはここまでだ。

もっと近づくためには土手を降りて

どこまで陸地なのかわからない

ヨシやなんかの茂みを慎重になって歩く必要がある。

 

積み重なった枯れ草は

水と土の境を曖昧にしているので

唐突にズボッと沼地へ

足を踏み抜いてしまうかもしれない。

それに、ここいらの茂みには

そこを住処とする生き物たちがいる。

野うさぎやネズミ、カメたちがいて

もしかしたらそうした生き物は

僕のような人間の好奇の目を免れて

静かに暮らしているのかもしれない。

そんな平和な暮らしを

荒らしていいものかと思う気持ちと

別に彼らは気にしまいという気持ちが

よくせめぎ合う。

 

土手の斜面は見た目以上に急なことがよくある。

そこをへっぴり腰で降りようものなら

沼はそんな人をにやにやしながら

待ってましたとばかりに

水の中へといたずらに誘うに違いない。

結局のところ、僕は双眼鏡で眺めるだけにとどめた。

 

何度か、草が枯れて見通しの良くなる真冬に

どこまでが陸地でどこからが沼なのか

確かめようと水辺を歩いたことがある。

小雨が降るなか、とても慎重に

ゆっくり、しかしすばやく足を運びながら

どこまで行けるかを確かめた。

結果、わりと奥まで

歩いて行けることがわかると嬉しくなり

家に帰ってから

当時付き合っていた恋人に何を期待したのか

その報告をした。

すると「こんな雨の中何をやっているの!」とまるで親が子を叱るかのように

かなり本気で怒られてしまい

僕の楽しい気分は失せて、すっかりしょげてしまった

今思い返せばそんなに怒ることでもないし

落ち込むほどのことでもないのだが

怒られるということ自体がショックだったので

なにも言い返せなかったのだと思う。

 

あれからしばらく経つが

今もどこまで歩いて行けるのか

沼へ行くたびに気になる気持ちに変わりはない

そして、怒られて悲しくなった気持ちや

雨の中ふかふかに積み重なった

枯草の上を歩いた楽しさ

沈み込みそうなほどに柔らかい場所へ

足を置いたときに緊張したことが

すべて一括りとなって蘇る。

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新しい風

表参道へ行った日のことだった。

あるお店で会計へ向かうと

見慣れたイラストが描かれた置きビラを見つけた。

久しく会っていない友人のイラストだった。

そこには初個展、と書いてある。

熱い心を持った人だったので

いつかやるだろうとは思っていた。

だからとうとう個展にまでこぎつけたんだなと嬉しくなった。

僕は連絡先を知らないままだったので

特に伝えることもなく

しばらくの間その日を楽しみにしていた。

顔を出せばきっと驚くだろう。

そして案の定、友人はたいそう驚いた顔をしていた。

ギャラリーにはひっきりなしに人が訪れていた。

その全員に声をかけに行く姿や

熱量をもって自分の作品について語る姿が凛々しい。

懐かしい話に花を咲かせるのは後の機会にし

僕は立ち去った。

 

作品を観ながらもし自分が展示をやるなら

という考えが浮かび始めている。

どんなテーマでやろうか。

そもそも自分は何に関心があるのだろう。

写真で何を伝えたいのだろう。

帰り道も今もずっとそのことで頭がいっぱいである。

一貫してブレない伝えたいことはなんだろう。

 

帰り途中に立ち寄ったevam evaで墨色のコットンシャツを買った。

柔らかな布の美しい服である。

袖を通して第一ボタンまで閉めると

肩の力が抜けつつも背筋が伸びるようであった。

いい服にはひとを育てる力があるかもしれない。

こんなシャツのような人間に成長していきたい。

 

進歩もなく停滞していたここ最近だったが

ここにきて新しい風が吹いている。

どうかこのまま吹いていて欲しい。

なにか今までにできなかったことができそうだ。

 

 

 

 

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古い本の話

自宅そばの古書店で本を買った。

都内で買うのと比べて値段が安く

店の聡明なご主人と話すのも楽しい。

 

誤解しないでほしい。

安ければいいというわけでもないが

高ければよいというわけでもない。

高いか安いかは結局のところ付加価値で

本の価値はそれ自体にある。

 

読書家というほどではないが

活字嫌いというほど読まないわけでもない。

読みたい本があれば夢中になって読むし

興味がなければページをめくることはない。

知りたいことがあるときになんらかの答えを

本に求めることがある。

直接的な答えを与えてくれることはないが

気づきを与えてくれることはある。

 

串田孫一氏の本は平易な文章のなかに美しさがある。

普遍的な題材について書かれているにも関わらず

こうも読んでいて楽しいが不思議で

そこに氏の文章の魅力がある。

本を読んだあとに無意識的に真似していることがあるので

その点には十分注意をしたい。

真似していることを自覚していなければだめだ。

真似るなら本気で意識して真似たい。

そして、自分の語り口というものを育てたい。

 

 

 

 

愛嬌あるクマだ。

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例えば一回、

”例えば一回、失敗したとしても

それはたったの一回でしかないし

人間、失敗の連続。

しかし、調整するということができるのも人間。

今から出逢う人

好きな人を

過去の経験に当てはめない

そしたらなんも怖くない

ただ、向き合うのみ

自分も、過去の自分とは変わるかもしれんし”

 

大人になってから気の合う友人ができることは

そんなに多くない。

年に1回会うだけで

十分な友人関係も好きだし

なにか折を見つけて会う

近いような遠いような関係も好きだ。

 

過去の経験から考えてしまえば

友人や恋人に関わらず

今ある人間関係も

恒久的なものではない。

いずれ疎遠になり

そういえばよく遊んでいたっけ、と思い出すだろう。

旅行へ行く前から

帰る日のことを想像して寂しくなるように

一緒に時間を過ごしながら

いつか彼らとも会わなくなる日が

くるかもしれないと想像をして

寂しくなってしまう。

 

だから関係がひとつなくなっていくごとに

自分の何かが欠けていく気がする。

相手との繋がりが深ければ深いほど

その欠けてしまった穴は広がる。

 

穴を広げないために

穴をつくらないために

うわべだけの付き合いや

自分の本当の部分を見せずに人と付き合う。

繋がりは薄く浅くしようとしつつ

それでいて濃く深くつながりを求めている。

失うことをわかっているにも関わらず

大きな矛盾を抱えて

繋がりを求める。

 

大きな喪失を経験して僕は

失うことに対して

とても臆病になってしまった。

臆病であるのになぜそれでも

繋がりを欲するのか。

それはたぶん

人を好きになり

共に生きることの幸せを知っているからだろう。

 

ときおり絶望の波は押し寄せるけれど

少しずつ高さと勢いは減ってきた。

この波と共に生きていくしかないようだけれど

はっきり自覚しているように

この波は途絶えて欲しくないと思っている。

忘れたくないのだ。

 

愛とはなにかをひとに尋ねられた。

僕も答えが知りたく考えたり本を読んだりした。

その答えを知りたい。

長い時間をかけてその答えを知りたい。

 

友人に相談をしたら

冒頭の答えが返ってきた。

過去と今に連続性はないのかもしれない。

だから怖がることはない。

優しく力強い言葉だった。

ようやく僕は自分に対して

素直になろうとしている。

 

あとは自分の足で進むだけである。

 

 

 

 

 

 

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山へ行った日

久し振りに山へ行ってきました。

 

 

 

 

 

 

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空港へ

 

久し振りに羽田空港へ行った。

 

空港に着いて自動ドアをくぐり出発ロビーへ出ると

そこは見覚えのある景色だった。

うっかり忘れていた、ここには思い入れがあった。

あそこのベンチも向こうの受付カウンターもどれも腹が立つほどによく覚えていて

さっきまでの緊張感は猛烈な寂しさへと変わり

段々と動悸がしてきてすっかり泣きたくなってしまった。

無意識のうちに姿を探していて僕は慌てて対策を考えた。

 

これはきっとお腹が空いているせいだと思い

ぶっきらぼうな店員さんからカフェラテを一杯と

生ハムとルッコラのサンドイッチを受け取り

チケットカウンターへ並ぶ人々を観ながら

うまいなぁとほおばっているうちに、いもしない後ろ姿は消えていった。

 

それからはいくらか落ち着いた気持ちになったので

せっかくだから前に乗った搭乗口を探そうとしつつ

思い直して踵を返して巨大な鉄の塊を見つめながら

搭乗時刻を待つことにした。

 

ANAの機内誌・翼の王国を読みながら、僕はまた少し落ち込んだ。

世界はこんなにも広くてたくさんの美しい景色

たくさんのおいしそうなものがあるというのに

僕は今それらを見たり触れたり口にすることができない。

まったく子供じみている。

それに写真がどれも素晴らしい。

いつか僕も人に認められて公の場に出るほどの写真が撮りたい。

生来、大きな声で自己主張することが苦手な僕は

いいなぁという憧れが徐々に焦燥へと変わり

自分の精神状態が健康ではないことを自覚した。

 

けれど良い発見もあった。

野村友里さんの写真と記事をとても気に入り

短い人生、たくさんのものを観て感じて

その中から最も自分にしっくりくるものを選ぼうと思った。

しっくりくるものがない今が辛いだけで

懸命に探し続けたり

自分でつくることに尽力していけば

いつか自分のアルカディアを手に入れられるかもしれない。

失うことを恐れず

生きることを楽しみ

挑む人だけが得られるアルカディア。

僕が欲しいのはそれだ。

 

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よく生きる

三年ぶりに歩いた景色は

変わったものもあれば変わらないものもあり

一生の憧れと言える人に案内してもらった土地を

また新しい気持ちで歩いていた。

変わったもの、変わらないものは風景だけではなかった。

僕もまた毎日を生きていった時間の中で、いつのまにか前へと進んでいた。

 

暗中模索の人生においてどこを向けばいいのか

その人の存在は思い出させてくれる。

それは僕にとって真っ暗な夜の海に光る灯台の明滅であり

北の空に輝く北極星である。

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ビデオ屋の閉店について

 

 

あれはもう20年前になろうかという

まだ僕が中学1年のころの話です。

初めてハリウッド映画を観たのです。

 

父と兄の三人で観た映画はマトリックスでした。

それまで好きだったのはゴジラやガメラといった特撮モノで

そこでいきなりハリウッドの洗礼を受けたのでとても衝撃的でした。

エンドロールが終わって館内が明るくなっても

しばし立てなかったことをよく覚えています。

それから僕はたくさんの映画を観るようになりましたが 、映画館は高い。

そんな「もっと映画を観たい!」という欲求を満たしてくれたのは

近所にあったレンタルビデオ屋でした。

 

水曜ロードショー、木曜洋画劇場、金曜ロードショーは毎週欠かさず観ており

それが何よりも楽しみでしたがそれだけでは足りず

レンタルビデオ屋に毎月おこづかいを注ぎ込んで通っていました。

母には一度観た作品をまた借りてきたことについて

「なんで二回も三回も同じのを観るのかわからない」と呆れられたり

お金を使いすぎると怒ったりもしていました。

それでも僕はどうしても映画が観たくてよく通っていました。

 

通ううちにどこになんのタイトルがあるのか把握できるようになり

一回行けば2時間も3時間も脚が痛くなるまで

パッケージ裏に書いてあるあらすじやキャスト、配給会社、製作会社の項目を読みふけり

会社によってつくられる映画に特徴があることにも気がつくようになりました。

 

さらにそこで働いていたスタッフのお姉さんとも仲良くなって

たまに一本余計に貸し出してくれたりしていました。

よく声が通り、よく笑う背丈のある天然パーマの憧れのお姉さんのことを

素敵だな、好きだなと思っていました。けれど顔見知りになってから

5年ほどで結婚してしまい、僕はいくらかがっかりしたのを憶えています。

VHSからDVDに切り替わり、DVDがBlu-rayに切り替わるのも

新しい時代がきてるんだとワクワクしながら見届けてきました

そんなビデオ屋が、少し前に閉店しました。

 

たくさんの夢を見させてくれたビデオソフトが並んでいて

目の前に立つとワクワクする高い棚はなくなり

長い時間立っていると脚が棒のようになる硬く白いリノリウムの床を照らしていた蛍光灯も消え

話題の映画のポスターが飾られていた内壁はただ真っ白な壁になっていました。

その、緑色をした非常灯のみが灯る空虚なビデオ屋を見つめながら、時間の進みを感じました。

 

映画館はレンタルビデオ屋の普及によって衰退し

レンタルビデオ屋はオンデマンド配信サイトによって数を減らしています。

スマホでも簡単に観られるようになり

以前よりもたくさんの映画を観ることができるようになったのですがなんだか僕は寂しいです。

 

今でも映画館で映画を観ますし

レンタルビデオ屋でビデオを借りますが

通い慣れた近所の映画館とビデオ屋も閉店してしまうことでなんだか

僕が映画を好きになり、映画と共に過ごしてきた思い出すら

閉じ消えてしまう気がしています。

 

店舗は取り壊されずそのままです。

いつかここにもテナントが入るに違いありません。

新しいテナントが入ればまたワクワクするでしょうけれど

そこにどんなテナントが入ろうと

僕にとってそこは、ビデオ屋であることに変わりないです。

 

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母と息子

長くなるけれど書き留めておきたい。

自分で読み返すことがあるかどうか

わからないけれど

残しておかないと気が済まない。

 

先日母に誘われて、二人で食事に出かけた。

といっても素敵なお店なんかではなくて

近所にあるチェーンの和食レストランだった。

けれど、僕はそれで充分だった。

母が他の家族ではなくなぜ僕を誘ったのか

なんとなくわかっていた。

 

母と二人で出かけるのは15年ぶり。

僕が高校受験した年の春だった。

合格祝いにこれまた自宅近くにある

焼肉屋さんへ出かけた。

僕は合格したことがとにかく嬉しかった。

お腹が空いているはずなのに嬉しすぎて

大好きな焼肉が喉を通らなかった。

 

母はその時のことを覚えており

「胸がいっぱいで食べられないと言っていたね」と

レストランへ向かう車中で思い出して話してくれた。

覚えてくれていたことが嬉しかった。

僕もそのときのことはよく覚えており

「うれしくて胸がいっぱいで喉を通らない」

と話していた。

母と二人で出かけることがとても新鮮だった。

 

母と二人で入った和食レストランは夕食のピーク時間のはずなのにガランとしていた。

この店はだいたいいつも空いている。

客層は高齢で、それがまた静けさを保っていた。

出されたお茶を

「あんまり熱くないね」

「やっぱりお客さん来ないのかしら、いれたままなんじゃない?」

と言うので

多分今まで熱すぎて飲めないって苦情があったんだと思うよ

言えば変えてくれるはずだよ、というのは胸の中へと飲み込み

そうだね、ちょっとぬるいねと話してメニューを広げた。

 

季節はちょうどイワシの時期だった。

母はこのお店で食べたつみれ汁が美味しくて

それから家でも作るようになったと話す。

母の料理はどれも美味しくて

子供のころはそれこそお菓子まで焼いて作っており

イワシをたたきにして作ってくれていたつみれ汁もとてもおいしかった。

まさかその起源がレストランだとは思わず、母の学ぶ姿勢に感心していた。

 

メニューを選ぶ時間も楽しい。

たくさんあるね、目が迷うねと話しながら

僕は多少の気恥ずかしさと元からの性格もあって

あからさまに喜んだりしないけれど

とても穏やかで楽しいなと感じていた。

母はデザートまで考えて、僕も甘いものが欲しいなと考えて

自分の甘いもの好きはこの人の血筋かもな、と想像していた。

 

「ばあちゃんはこういうお店に来ると、いつも抹茶アイスを頼むのよね」

「抹茶パフェとか抹茶わらびソフトとかじゃなくて、抹茶アイスなのよ」

母は、自分の母をばあちゃんと呼ぶ。

いつからそうなったのかわからないけれど

僕は母のその呼び方を気に入っている。

離れていてもいくつになっても

お母さんはお母さんであり、ばあちゃんはばあちゃんなのだ。

何かを見て誰かを思い出す、その瞬間がとても好きだ。

特にそれが良い思い出ならなおさら。

 

メニューを選びながら、ごはんを食べながら母と話をする。

母のこと、家族のこと、自分のこと。

思い出話や悩み事など短い時間でたくさん話した。

相談ではなく、報告に近い。

話し足りないほどだったけれど

僕は疲れていたので帰る気配を出した。

 

持って行ったフィルムカメラで母を数枚撮った。

母を撮りながら、僕は急に焦りを感じた。

祖父母を撮っているときに感じたのと同じ焦りだった。

 

いつか母も死ぬ。

レストランの蛍光灯に照らされる

母の顔に刻まれるシワや、増える白髪、コシをなくした髪。

それらを目にしてより一層焦った。母もいつか死ぬのだ。

僕の身になにか起きない限り母は確実に僕よりも早く死ぬし

僕は母のお棺の前に立つ日が来るのだ。

生と死は二つで一つ。

普段忘れているその厳然たる約束事の前に、僕の焦りは無力だった。

 

仕事用にブログをひとつ持っている。

それは毎月1件というゆるい更新ペースだが、母はいつも読んでくれているらしい。

文章がうまいし写真もうまいけれど、何を言いたいのか深読みをしてしまうので

何回も何回も読み直していると話していた。

どんな気持ちでこれを書いているのか考えながら読むのよ、と言っていた。

 

僕は、それまで抱いていたブログを読まれることの恥ずかしさよりも

母のその僕を理解したいという気持ちに胸を打たれた。

思い出すたびにうるっときてしまうほどだ。

家族といえど全く違う人格を持っているので

理解しきれない部分が非常に多い。

ことさらに僕は繊細過ぎて気難しいので

思ったことをスパッと口に出せる母とは対照的だ。

 

そんな母が自分を理解しようと老眼で見づらいだろうにたくさんの文章を目で追ってくれていると思うと、母の愛を感じた。

 

母に限らず、命あるものは必ず死ぬ。

生と死は二つで一つであり、分け隔てることはできない。

その約束を忘れてしまうと、生も死も輝きを失う。

 

年老いてきた母の姿をまじまじと見つめたことで死を意識し、それでより一層、今ある生が輝いている。

その生とはつまり愛であり、自分で思っている以上に自分は愛されているという事実だった。