ほとり

 

 

 

 

 

 

 

 

久し振りに沼沿いを人と一緒に歩いた。

 

 

秋そのものよりも今は夏と秋の狭間にあるのでともすれば暑い夏を思い出すかのような日中だけれども、夕方へ近づくごとに静かになるので一日の中で夏と秋を行ったり来たりしている。陽が落ちる前には虫の音しか聞こえなくなる。

 

四年前の同じころにここを人と歩いたときと同じように景色は広がり、風が心地よかった。鹿島川の向こうに見える残照の空を見つめる横顔に目をやろうとするも「いいや、自分がしたいのはそうじゃない」と思い直し、やめた。人には各々の美しさがある。魂の形や美しさは様々で、僕が美しいと感じるのは人の外見に現れる内面の自然。その人の中にある自然を美しいと感じる。だから自然を感じなければ美しさはとても表面的であり、飽きてしまい、味気ない。この日はあのときと同じものを感じた。人の中に自然を感じた。

 

ほとりを歩きながら僕は目をつぶった。なにが見えるか、音の源やにおいの元だけ教えてもらい歩いていると記憶のなかの景色に現実を重ね合わせるので、目には見えない世界との繋がりが生まれた。そこにはたくさんの心があり、死んだものも生きているものも触れ合えないものたちを感じた。目には見えない存在との繋がりと暖かさを感じて僕は涙目になった。人の目に映ったものをその人の言葉で聴き、僕は想像を巡らせた。そのとき自然とひとつになった。

 

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深く考えようがない

 

 

 

 

 

僕は変わらずこうやって地面に転がる死んでるものたちを見ることがやめられない。己との付き合い方を知るだけであり、本質的には変わらない。

 

見てはいけないものを見ているような、けれど厳然たる事実としてそこにあるものを見ているとやはりグイグイと引っ張られるものがある。そこから特に深くは考えない。考えても本で読んだり人から聴いた考えしか浮かばないので実感が伴わないから考えない。ザリガニは死んでも赤いんだな、エビとは逆(加熱した場合)なんだなという程度。もしここの田んぼで採れた米がザリガニ風味だったら、あぁあそこで死んだザリガニたちだとわかるけれどそんなはずもない。

 

それから。

 

稲刈りを終えた田んぼに並ぶ田んぼ用の水道や塩ビパイプがなんだか墓石のように見えた。田舎を歩いているとたまに道のそばにこじんまりとした墓地があるけれど、どことなくそれと似ている。

 

 

2年くらい前にはたと自分は恐らく40代で寿命を終えるということを悟った。なんの根拠や理由もないままそれをどこか奥底で信じている。もう十分生きたと感じているし、あんまり長生きしたいという欲もない。かといって自ら死を選びたいわけでもない。とにかくただ自分はそれくらいで尽きるのだと感じている。これを表現するにはこうした文章にするしか手立てが今のところない。言葉にしたところで相手を困惑させるだけなので、ただ黙り、自分の引き出しにしまっておくばかりである。そうしたことが多いので一杯になりそうな引き出しの中身をこうして書いている。

 

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生まれてくれたことへの悦び

 

 

 

 

 

 

 

子供の頃、家族みんなで誕生日を祝っていた。しかし大人になると子供のころのようにいちいちお祝いをしなくなる。僕はこれが寂しいので、大事な人の誕生日はことさら大げさに祝おうとする。

 

僕の話をする。

 

誕生日といえばあえてそれを意識せず今日も明日も日々は続く、生まれたことは特別ではなく単なるつじつま合わせであり、生きている限りその日々を粛々と生きるのだと心を落ち着かせ、人生に対して過剰な期待や理想を手放す日としている。しかし、これは本心の裏返しに過ぎない。本当は祝って欲しいし自分がこの世に産まれて生きていることを祝福して欲しいし、人とその喜びを分かち合いたいと感じるのだがそれは身近なひとにバレないよう胸の中にしまって閉じ込めている。

 

祝って欲しいという本心の欲求を満たすかのように、大事な人の誕生日にはお店を予約したり特別な料理やプレゼントや手紙を用意したりとどこかちょっと演技じみた気取りをする。誕生日をイベントとして見た上で、それにかこつけて改まって感謝や生まれてくれた悦びの言葉などを紡いだりする。そうした気取りをすることで自らの欲求を満たそうとする。

 

こうしたイベントとして誕生日を捉えることは改まって気持ちを伝えるにはいいけれど、やはりどこか懐かしさを欲してしまうので寂しさや物足りなさを感じる。それはたぶんに自分の欲求を満たす方法を回りくどくしているからだろう。他者を祝っても自分の「祝われたい」という欲求は決して満たされることはない。子供のころのように手放しでおめでとうと言われたいのだと思う。

 

しかし、誤解ないように付け加えたい。それほど単純なひとつの動機ゆえに人が産まれたことを祝っているわけではない。僕は本心から産まれてくれたことへの感謝と喜びでもって祝っているつもりだ。つじつま合わせの誕生だとしても奇蹟であることに違いはない。産まれてくれたこと、生き続けてきてくれたこと、様々な人や景色との出会いと別れの先にその人の今があり、その今があるからこそ僕はその人から学んだり喜びを得たりする。こんな素敵な人が生きていること、自分と仲良くしてくれていることには感謝してもしきれない。

 

だから冒頭のように、僕はなかば大げさに生まれてくれたこと、生きていることについて祝いたい。手紙を書き、好きなものを思い浮かべて贈るものをつくったり選んだりして手渡して、ありがとうと伝えたい。こうしたことは大げさにするくらいがちょうどよい。

 

友人らの誕生日を仲間たちと祝い、おいしい食事を分かち合い、些細なことで笑い転げて生きていてくれてありがとうと伝えたことで僕の欲求はすこし満たされた。そしてそこからまた新しい欲求が芽生える。いつの日か自分が家族をもったら、大事な人の誕生日を大げさに祝いたいという欲求が。子供のころ自分が祝われて、大人になった今も覚えているあの光景のように、家族みんなで集まってことさら大げさに祝いたい。

 

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夏の終わり

 

 

 

 

 

 

忘れないままいつか少しも思い出すことがなくなるくらい幸せになれますように。

 

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自然のなかの肉体

 

 

 

 

 

線の重なりがなだらかな丘をつくっている。その丘は人の身体と似ているから陽光にきらめくうぶ毛まで見えてくるよう。その線をそっと指でなぞれば、この上ない悦びと安堵の気持ちがこみ上げる。

 

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甘く漂うキンモクセイの香りを寝る前に今一度フタを開けて嗅ぐ。香りは遠く過去の記憶へと繋がり、その底でたゆたう哀しみと静けさ、穏やかさに浸り、ひとときの安らぎを得る。土臭い雨の匂いのあとに訪れるきらめきは空気が変わり季節が巡ることを報せる。古きものが持つ尊さに変わりはない。今も昔もこれからも。郷愁の念は今へと繋がり、その繋がりのひとつに自分の生がある。生は死へ、死は生へと繋がる。

 

 

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沼の夜

 

 

 

 

 

 

足が泥の中へゆっくり沈み込んでいく。沼地は湿度がとても高いから暑くて汗が止まらない。それに背丈以上もある深い草むらの中にいると、もしここで倒れても誰も見つけてくれないんじゃないかという想像が働いて怖くなる。そもそも人がいない時間帯に人がいない場所を狙って行っているんだから見つかるわけがない。やたら強靭なクモの巣にひっかかるし、虫も多いし、ダニに刺されないよう長袖長ズボンだから暑いし、三脚・カメラ・レンズは重いし。そこの茂みが動いたのはなんでなのか気になったり、とても頭が忙しい。

 

ライトを点けていると見なくていいものまで見つけてしまいそうなので必要なとき以外は消しているから月明かりしか頼れない。もう段々となんでこんなこと望んでやってるのかわからなくなる。そうして汗まみれになっていると、頭の中に詰まっていた混沌とした世界が「すとん」と落ち着いてすっきりしてしまう。あそこで感じるのは、たぶん、楽しいとか嬉しいという感覚よりももっと原始的な生々しいほどの「生きている」という単純な実感。

 

街で暮らし、都会で働いていると色々と勘違いしてしまう。見失いがちな、人間たる自分は自然の中ではその他大勢たくさんいるうちのただの生物でしかないという事実をここでは再確認できる。そのとき寂しさや苦しみは消え、ただそこにある静寂や生き物たちの気配、生きているものたちが生むさわがしさに夢中になる。こうしたまったく純粋な生物として観察する道具であるカメラを使うことで、目に見える形を変えただけで決して消えてはいないその存在に気がついて見つけることができるんじゃないかと思っている。

 

 

 

 

降りたことのない駅からアイスが溶けないうちに小走りで向かいつつ、八百屋で買ったデラウェアがつぶれないよう手に持って、知らない街にある友人の家へ一年ぶりに行った。

 

映画「トゥモローワールド」で観た「うまく説明できないけどとにかく尊く美しいもの」を現実世界でも感じた。辛く苦しくどこまで続くのかわからない闇のなかに、突然気づくと輝いているそれが在る。自分のうちから湧いてくるそれが尊いとわかる感覚。これを大切にしたい。

 

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消えて昇る

 

 

 

 

 

形を成しては消えてゆく雲を見上げていた。

火葬場で見上げた煙突から昇る

白い煙と似ていたので。

 

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象徴

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夜の自然が怖い。

 

自然は自分のなかにあるものを

投影する対象であるから

怖いのは自然ではなく

恐らく自分のなかにあるものだろう

一体なにを怖がっているのか。

撮っては考えて

撮っては考えてを繰り返していた。

 

 

草むらや森の暗がりに

目には見えない存在を感じる

霊とか妖怪ではなく

人や動物の類でもなく

この世に、この次元に存在している

それを恐れている。

 

 

暮れる空を見上げていたら

夏、山間に見かけた火葬場を思い出した。

白く高く伸びる雲のような煙だった。

 

 

うちの犬が死んだ日

骸を抱いて火にくべ

件の煙突から上る雲のような煙を眺めていた。

少しも悲しくなかった。

骨は純白そのものであり

集合骨壺の中で冬の陽射しに輝いていた。

「お友達がたくさんいるから寂しくないね」

そう言った母の言葉がやけに残った。

 

 

暗い夜道に取り囲まれた

いくつもの蚊柱は

カメラのフラッシュで

ありありと浮かび上がった。

目には見えないけれども

確実にそこに在る。

 

 

観ている対象は自然そのもののようだが

間違いなく自分自身を観ている。

僕は恐らく自然のなかに

死への恐れを感じていたのかもしれない

 

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